昭和五十七年一月十五日 朝の御理解
x御理解第九十三節 「氏子は神の守をして居る者を、神と心得て参詣する。守が留守なら参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておく事はできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心に裃を着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間は皆同じ様に神の子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならぬぞ。
昨日、広島の矢吹さん、青年の方が参ってまいりますね。あの方がここへ出て来て、昨夜は、昨日おとといですね、昨日の晩、真豊組の共励会に出席させてもろうて、まあ、幹三郎が芯になっての会です。本部に勤めております渕上先生もやはり真豊組に入っておりますから、あの人達夫婦の福引きを皆で御祈念して引いてやっておこうじゃないか、という事になって、皆で御祈念をして、そして渕上先生達夫婦のものを、これは渕上君、これは順子さん家内の、と言うて引かせて頂いたのをここへ昨日持ってまいりましてね、昨日、広島の方へ帰りますから、本部の方へ渕上君に届けたい。もう兎に角、渕上先生がびっくりして喜ぶ事でしょう、と言うて持ってまいりました。その御理解が、渕上君の場合「五徳」というものであった。五つの徳と書いてある。
私も、皆さんの一人一人のそれを聞かせて頂いて思うんですけど、昨日私も本当に神様の働きというものが、合楽の上に起こっておる、かけられておる。又、一人一人の信者氏子の上に、こういう願いが誰の上にでもかけられておるんだなあ、という事を改めて、又感じたんですけれども。
先だってから、あそこの息子長男が生まれました。で、お名前を頂きたいと言うてまいりましたから、神様にお願いをさして頂きましたらz「五徳(いつのり)」と頂きました。五つの徳という事。息子も名前と同じなんです。あ-、ちょっと渕上先生も驚くだろうと。だから皆さんの場合でもそうでしょうが、ね。やはり一人一人の、それこそ心の中に入っておって下さるかの様に、かけられておる自分であるといった様な自覚に立って、それにお応えするという事にならなければね。如何に、どんなに神様が適格に間違いなくお知らせを下さっても、かえって神様に御無礼になる様な事になりはせんでしょうかね。これはなかなか頭のいい先生ですもんね。皆様も御承知のとおり、ですから。ま、結局あちらの教学所の方へ望まれて、あちらへ残って、今教学所に勤めているわけですが、この人はね、辛抱力がないのです。はい。だから神様、いよいよもって間違いないなあと。自分の子供の名前と同じ名前である。それで驚いて同時に、なら、その五徳という子供の名前を頂いた時に頂いた御理解でしたけれども、五徳というのは皆さんも、今はあんまり若い方は知らんかもしれません。火鉢の中へこうやってね、こう差し込まれるね、火がおこっておる、そこにこう五徳を置いて、そして茶だしをかけるという様な、あの五徳の事です。勿論、五徳と言うのですから、神徳、人徳ね、物の徳、金の徳、健康の徳といった様なものがね、足うわなければ人間の幸せは、いわゆる五徳が足うわなければ、あのう人間の幸せはあり得ない。いわゆる人間の幸せの条件が足う為にはね、それこそ火の中へ差し込まれる様な事があっても、じっと辛抱する様な辛抱力が頂けて、辛抱の徳を受けなければ頂ける事じゃないです、ね。いやあ、もう神様は見通しだな、と。まず子供の名前と同じであるのに驚くでしょう。
次には成程神様が見通しだなあ。私が辛抱力がないから、いよいよ辛抱力を作って行けよ、と、まあ例えば、ああして月に何回か御礼参拝して来ます、ね。ですから、も、たまにしか月に一回か二回にしか出てまいりませんから、その参って来た時くらいは夫婦で朝の御祈念にも出て来るくらいなあれがいる、ですけれどもなかなかそれがでけません、ね。
今日の御理解で言うとです、ね、朝の早い遅いだけでも、又、守りが留守する様な事では信者は助からん。これは私は、お道の教師だけの事ではない、ね。兎に角、まあ、おかげというか、その力、お徳とでもいいですけど、兎に角その人の心次第なんですから、ね。自分がやはり、朝早起きさしてもろうて一頑張りさせてもらおうといやあ、その頑張りそのものを神様は修行として受けて下さるのです、ね。そこには少しの辛抱はいりますけれども、その、いうならば辛抱させて頂いておるうちに、それこそ三代金光様じゃないけれども、辛抱しいしい座っておったと仰せられます。
そりゃそうでしょうね。十三才の年から、ね、親金光様の跡を継がれたんですから、そりゃ本当に泣く泣く辛抱しいしいに、と仰せられます。本当に泣き泣き御辛抱なさった事だろうと思いますよ。まあだ遊びたい盛りのお若い身空で、ね。表に友達があのう、摂胤と申しあげたですかね、「せっちゃん遊ぼう」と言って声が聞こえて来ると、思わず知らず御結界をこう立ち上がっておられたという事ですね。すと、そこには偉い先生方が必ずすその方へ付いておられ、「金光様」と言うて、まあ制止されたという。そういう所も通られて、まあいうなら、泣く泣く辛抱しいしいに、私は金光様の御信心はね、どうしても、この辛抱の徳というものを頂かなければ本当のおかげにお徳にはならないとおもいます、ね。
だからどうしても辛抱の徳を身につけさしてもらう、ね、いわゆる、なら、金光様の先生であれば、ほんなら渕上先生二人がもし布教に出てですたい、朝も寝たいほうだい自分の座ろうごたっ時は座る、という様な事ではとても人は助かりません。
昨日は十三日の日からか十二日に日からか、あのう、昨日は東京、埼玉、名古屋あたりからの御参拝があっておりました。その方達が、まあ話しておられるのはです、結局教会に対する不安なんですね。先生に対する不安なんです。それでまあ、どこにお徳の高い先生がおられるいやあ、そこまでわざわざ行ってでも、まあ、お話を聞きに行かれるという。今度どうでも、もう合楽一本にしぼって東京、名古屋あたりから月参りのおかげを頂きたい。そして、どうでも私共の地区にここの修行生の先生方をね、ここの出社をどうでも作って下さい、と言うて帰りがけに、皆ここへ出てみえてその事のお願いをなさいました。
ここにも沢山修行生の先生方がおりますからね。又、本当に合楽の信心がわかられて、そうした御用でも出来られる事になってくればね、そりゃあ又そこに、そういう話が実を結ぶかもわかりません、ね。も、兎に角合楽に参りまして、あの十三日会に会わせて頂いて、あの百数十人の方達が一人一人発表されたという事は、もう大変な驚きだったらしいですね。
これは私共も知っておる限りの教会で、例えば婦人会なら婦人会があってもね、どげな話でんよいけん一言して下さいと言うても、なかなかお話が出来る人というのは何人もおりませんです。信心発表の出来るというのは、それを、私、合楽の皆さんがあのようにして、一人でも私は出けんと言うた人はなかったですからね。皆、しかも一分間という時間にあれだけのまとめた話が出来なさるという、それは日頃頂いておる教えなんです、ね。
しかも間違いない、いうならばクジを引き当てておられるその中から、自分が頂いた事、感じた事を、まあ、発表されたわけですけれども、もうこれは驚きましたと言っておられる。皆、ね。ですから、それこそ、成程よそから来た人達は驚きでしょうが。そういう驚きと喜びと言われますが、その喜びを頂く事の為にはです、そのクジが生きて来なければ、ね。渕上先生ではないけれども、ね、自分の子供に頂いた名前とそのクジが同じであった、という事に驚いただけではいけません。その驚きに、成程神様が見通しだなあ、自分に辛抱力がないから、ね、五徳の様な辛抱して徳を受けてくれよ、と神様が言うてござるの、というところまで悟って実行をして、初めて喜びというものがついてくる。
信心の驚きと喜び。私、今日の御理解は勿論、これはお道の教師に対する御理解でしょうけれども、ね、合楽の皆さんの場合は一人一人がです、まあ、私は取り次ぎ者という様な自覚に立ってね、いわゆる合楽示現活動に参画するという事はそういう事なんです、ね。それこそ自分が頂いておる信心、おかげを受けておる心の実感がね、人に伝えに伝えられて、いわば示現活動にという事になるのです、ね。その示現活動に参画させて頂く事の為にもです、まずは頂いた御教えを本気で守り、ね、その御教えを頂いた時に驚いた、その驚きが実行によって喜びに変わって行く。成程、信心の驚きと喜びを日々ね、例えば、これがお道の教師であるなら、なら例えば渕上先生達が布教に出てから、ああいう御理解頂いておった、ね、夫婦話し合って、ね、兎に角お道の教師が朝寝どんしておる様な事じゃでけんぞと、二人が精進しおうて行く実験をしたならば、するならばね、そこに私は人の助かる様な働きにもなって来るとおもうです、ね。まあ、打てば響くという言葉があります様に、金光様の御信心はこころ次第ですから、ね。頂いた御教えを本気でそれを行じようという気になると、もう早速神様の働きが始まります、ね。ここでは教えを頂くという事はね、もう日々が驚き、もう合楽で長年の金光様の御信心を頂いておりますけども、この様な有難いお話を頂いた事はございませんでした。昨日、帰りがけに、もう元旦祭の時の模様やらお説教やら、それからお一日の月次祭の御理解を頂いて帰られて、もう本当に、まあ、それこそ、こういうお話は頂いた事がなかった、というて喜んで帰られたという事ですが、皆さんがそこにです、合楽のお話というものが、ただのお話じゃない、もう日々がひとつの驚きをもって頂かれて、実験されて初めて喜びね、その驚きと喜びをね、合わせて頂けれる様な、お互い信心をさせて頂きたいですね。どうぞ。